古来より筑後川は「暴れ川」と言われ、流れが速く、鍋島・有馬藩が管理する両岸は大雨の度に大洪水に見舞われており、川が運ぶ肥沃な土壌を持ちながら、水害のために飢饉がおこる悪循環を繰り返してきました。
この水害を防ぐために佐賀藩家老・成富兵庫茂安公は筑後川西岸(現在のみやき町千栗〜坂口)に、全長12kmにもおよぶ堤防を作り上げました。堤防は補強のために川表には竹、川裏には杉が植えられ「杉土居」ともよばれていました。この堤防は二重になっており、完成までに12年を費やしたと言われています。
築堤以来300年近く破堤等が起らず、地域住民の生命と財産を守り続けました。その功績を讃えた記念碑が、筑後川を眺めるようにみやき町の筑後川沿い(国道264号線沿い)に建立されています。
この碑は昭和10年(1935)に、当時の北茂安村と南茂安村(旧三根村※昭和30年に三川村と合併して三根村となる)の関係村長及び小学校校長等、千栗土居の恩恵を受けた人々の発起で建てられました。
「千栗堤防 千栗ヨリ坂口マデ蜿蜓(えんてい)三里 茂安公慶長九年 起工ヨリ十二ヶ年ノ歳月ヲ 経テ成就セラレシモノナリ コノ功績ヲ永久ニ讃ヘン為 茲(ここ)ニコノ碑ヲ建築ス 昭和十年十月十日」と記されています。
(※この碑文中には慶長9年起工とありますが、現在では元和年間(1615−1624)に起工された説が有力です。)
現在千栗土居は、筑後川の堤防整備によりその役目も終り、平成12年に本来の姿を200m程残した千栗土居公園として整備し、保存されています。
この大堤防は、まず堤の中心部の基礎に「ハガネ」と呼ばれる粘土を突き固めて水が漏れないようにした壁を埋め込み強度を増していきます。次に川内には笹を植えて根を張らせ、増水時に水の勢いで土居が削られるのを防ぎ、川外には杉を植えて、決壊した際の修復工事に使う木材としました。豆津付近は筑後川が大きく蛇行していたので、その分大きく遊水地を設け洪水に備えるとともに、平時はその遊水地を無税の土地として、周辺農民の蓄えとさせました。
12年間という工事期間も作業員として農民を動員するうえで、彼らの農作業の足かせとならないようにわざと長期間の工期を設けたと言われています。
ところでこの千栗土居は造られた年代がはっきりと分かっていないのですが、工事期間に茂安公が残した文書や工事関係者とのやり取りで残された書類から元和年間(1615−1624)の始めの頃に着手したのではないかと言われています。
住所:みやき町大字西島
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