白石神社は北茂安校区・白石地区にある歴史ある神社です。
文政6年(1823年)白石鍋島家第6代鍋島直章公により創建され、祭神は白石初代邑主鍋島直弘公、白石焼の先覚者である鍋島直暠(なべしまなおてる/てるの文字は日の下に高)公、土木治水の神・成富兵庫茂安公の御三体が合祀されています。神社の境内へ続く参道の石段は、広い横幅に比べ、一段の高さは15cm程度で、警護の侍が馬に乗ったままで参拝できるよう、馬の脚に合わせて造られています。
また、参道には桜の木が植えられており、花見客で賑わいます。正月明けの「ほんげんぎょう」初夏を告げる「七夕祭り」、勇壮な流鏑馬を奉納する「時代祭り」など多くの参拝客が訪れます。
白石神社
佐賀藩は肥前国の佐嘉・神埼・小城・杵島・藤津・三根全域と養父・松浦、高来、彼杵の一部を合わせ持った(35万7千石を領有していた)外様大藩でした。この領地を3支藩(蓮池、小城、鹿島)と鍋島4庶流家(白石、川久保、村田、久保田)、龍造寺4家で守っていました。
この白石神社に祀られている鍋島直弘公は、初代佐賀藩主・鍋島勝茂の八男で、初代白石邑主(ゆうしゅ)です。
父、勝茂の信頼厚かった家臣の成富兵庫茂安は、直弘の教育係として見込まれ、直弘は幼少の頃に養子として成富家で育てられました。
寛永11年(1634)茂安が75歳で没すると翌年白石邑(現在の北茂安校区・白石地区)に居をかまえ、のちに鍋島姓に戻った直弘はこれよりのちを白石鍋島家と称しました。(ちなみに「白石」という地名は成富兵庫茂安がかつて杵島郡白石(現在の杵島郡白石町)に知行地をもっていた事に由来するそうです。)
文政6(1823)白石鍋島家6代目邑主、直章公はこの地に邑祖直弘公を祭神とした社殿を建立し、その後、筑後川の治水土木事業に功績を残した成富兵庫茂安公を合祀しました。
御祭神:鍋島山城守直弘公、
合 祀:鍋島河内守直暠(なべしまなおてる/てるの文字は日の下に高)公、成富兵庫助茂安公
祭礼日:祈年祭・3月18日、七夕祭・8月6日、例祭・10月19日、新嘗祭・11月29日
境内社:稲荷神社、千住神、山神、辨天宮他
由緒:元村社。
白石神社は、治水事業に多大な功績を残した成富兵庫茂安公を合祀しています。茂安公は龍造寺家家臣、成富信種の次男として現在の佐賀市鍋島町増田で生まれました。若い頃は勇猛果敢な肥前武者として広く名が知られており、豊臣秀吉、福島正則、浅野長政、藤堂高虎、黒田如水らそうそうたる戦国武将が文献の中で茂安公を褒め称えています。
ある日、肥後の加藤清正が当時2000石の侍大将だった茂安公を1万石で召抱えようとしましたが「たとえ肥後一国を賜るとも応じがたく候」と言って断りました。茂安公の堅い忠義は龍造寺家にあると分かった清正は感涙したというエピソードが残っています。
茂安公は密接な信頼関係のもと主君直弘公を良く補佐し、佐賀藩の水利工事を一手に引き受けました。
筑後川の千栗土居、鳥栖市の五反三歩の堤、通瀬川のお茶屋の堤、綾部川(寒水川の上流)の一ノ井堰、田手川の水量を増やすための蛤水道、嘉瀬川の石井樋などの施工を行い、筑後川流域の農業の安定を図りました。茂安公は治水工事がはじまると現場に小屋を建て寝泊りし、働く人たちと共に働いていたと言われています。彼は「守るのは人であって、自然界の中でお互いに制しあうものである。我々人間はこれを利導すればよい。自然にさからって、自分の意のままに仕事をやれば思いもよらぬ禍根をのこす」と言っています。
また、茂安公はそれぞれの工事を単独に行うのではなく、中小河川やクリークなどを巧妙に結び付け、平野全体で治水、利水、排水を処理するというシステムを作りあげた事により、佐賀藩では水争いや百姓一揆などの暴動が起らなかったと言われています。
今なお水の神様として篤く信仰され、佐賀の賢人として語り継がれ愛されています。
住所:みやき町大字白壁3955
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