長崎街道は江戸時代に整備された脇街道の一つで、豊前国小倉(現在の北九州市小倉北区)の 常盤橋を起点として肥前国長崎(長崎市)に至る57里(約223.8km)の道程を持つ街道のことです。 江戸時代の鎖国状態の中で、幕府が唯一外国との交易を行う港である長崎に通じる街道として非常に重視されていました。
街道には25の宿場が置かれていましたが、みやき町内にはその一つである「中原宿」がありました。
街道は、みやき町北部を東西に横断し、江戸時代の参勤交代や数多くの旅人の長崎への旅路として利用されていました。
正保3年(1646)に描かれた正保絵図には、中原宿の記載はありませんが、宿を示す記号が記載さ
れています。元禄14年(1701)に描かれた元禄絵図には白壁村(現在の町内白壁地区)の枝村と
しての中原村と宿の記号があります。当時、中原地区は白石神社周辺に拠点を置く白石鍋島家の
所領でした。嘉永6年(1853)の「大小配分石高帳」には、中原宿が本宿となっており、寒水宿(しょうずしゅく)が郷宿として記載されています。
つまり長崎街道が整備された当初は、中原宿は轟木宿(現鳥栖市)と神埼宿(現神埼市)の間の宿(あいのしゅく)という格付けで規模も小さく高札場や茶屋もなかったのが、時代と共に格付けが上っていったようです。
当時、中原宿には街道沿いに泉屋・長崎屋・桜屋・松坂屋・大坂屋・岡崎屋の6軒の旅籠がありました。現存する岡崎屋は当時の名残を残し、2階の手摺りに「中原驛岡崎屋御定宿」の文字を見ることができます。
長崎街道を往来した人物は多く、オランダ商館のケンペルやシーボルトをはじめ、平賀源内、緒方洪庵らの蘭学者や吉田松陰、坂本龍馬、西郷隆盛等幕末の志士たちがこの街道を通って行きました。
日本の歴史を大きく変える立役者たちを往来させていた道として、今もなお多くの歴史ファンが訪れています。
住所:みやき町大字簑原〜大字原古賀 旧国道34号線
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